無鄰菴庭園全景。受付で申し込めば、庭師の方のガイドも。また、日本庭園ならではのお茶席や日本画、お香などの講座も開催されています。詳しくはホームページでご確認ください。
京都の中でも、ひときわ文化の薫り高い岡崎地区。その一角、細い路地を入ったところにある侘びた佇まいの門が、「名勝無鄰菴」の入口です。ここは、明治の元勲、山縣有朋(やまがたありとも)が営んだ別荘。門を入り、こぢんまりした前庭の脇にある潜り戸を抜けると、そこには驚くほど広々とした庭園が広がっています。敷地面積は三一三五u(約九五〇坪)ですが、その数字よりもはるかに広く感じられるのは、遠くに霞む東山を主山として借景し、一望のもとに見通す空間を実現しているから。また、それまでの日本庭園にはあまり見られない広い芝生や、琵琶湖疏水を引き込んでゆったりと流れる水も、庭の景色を開放的なものにしています。
この庭は、山縣有朋が自ら指示し、七代目小川治兵衛(植治)が作ったもの。山縣は作庭についてかなり明確なコンセプトをもっていたようです。一方、植治はこの時にはまだ駆け出しの庭師でしたから、ずいぶん鍛えられたのではないでしょうか。無鄰菴管理事務所 所長の太田絢子さんは「山縣は、庭はいちばんいい所から見るものだ、と植治を母屋の座敷に上げ、上座に座らせたと言います」と、当時のエピソードを教えてくださいました。幕末維新を戦い抜き、明治大正の政界に君臨した山縣は、一方では人を育てる名人だったとも伝わっています。植治にとっては、この無鄰菴が実質的なデビュー作。ここで大いに名を上げ、これ以降、平安神宮神苑や何有荘(かいうそう)庭園など、いくつもの近代日本庭園の傑作を残していくことになります。
無鄰菴と名付けられた山縣有朋の別荘は、実はここが三代目。初代は、山縣の故郷、山口の山の中にありました。近隣には何もないから、無鄰菴。山縣は、激動とも言うべき人生の中のわずかな期間、妻と二人の静かな時をここで過ごしたのでした。
池や苔といったそれまでの日本庭園の定番ともいえる要素を根本から問い直し、「流れ」や「芝」といった新しいものに置き換えていった無鄰菴の作庭。そこには、故郷の里山の自然に対する想いが反映しているのではないでしょうか。今年は折しも明治150年にあたる年。「春はあけはなるる山の端の景色はさらなり」と山縣自身が歌った春の無鄰菴を散策し、はるかな明治に思いを馳せてみてはいかがでしょう
芝生は、あえてきれいに刈り込まずに、山縣がそうしたように野花を楽しめるようにしています。無鄰菴では、48種の野花の存在が確認されています。
辣腕政治家としての山縣の姿を伝える無鄰菴の洋館。明治36年には、この一室で日本の重要な外交方針を決める「無鄰菴会議」が開かれました。
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